●物の見え方、見方。          Vol.10
 当店がある東京/亀戸の神社、香取神社で去る3月23日に
「亀戸大根収穫祭」と「福分け祭り」というイベントが行われました。
 そのときの模様の映をHP上でストリーミング配信しようと
私ともう一人の二人でビデオ撮影をいたしました。
  既にストリーミング配信しております。  ご興味のある方はぜひご覧下さい。
    http://www.kame13.com/f-video.htm

 二人で撮影したテープを編集して配信用の5分程度の映像にするわけですが、その際面白いことに気が付きました。
 二人で特に相談もなく自由に撮影したのですが、同じイベントを取ったにもかかわらず、微妙に映像から受けるイベントの印象が違うのです。
 一つは
 「整然とした落ち着いた感じに。」
 もう一方は
 「にぎやかな楽しい感じに。」それぞれ写されておりました。
 これは撮影技術の違いだけではなく、撮影者の感性、意識の違いが
大きいと思います。

 現在、いろいろなメディアを通じて映像(写真も含めて)を目にし
場所や時間を超えて、事象を実感できます。
 技術の進歩もあいまって、それらはかなり「リアル」に私達の眼に
飛び込んできます。
 しかしそれらの映像は撮影者や編集者の意図の反映に他なりません。
 気をつけなければならないのは、実際に体験したかのように
錯覚してしまったり、すべてを見たように誤解してしまうことだと思います。   映画は正にその錯覚を楽しむ娯楽ですが、フィクションを謳っているドラマでさえ
  そのような誤解が生じます。
   たとえば例の「忠臣蔵」の敵役「吉良上野介義央」はとんでもない意地悪じいさん
  と思い込んでる人は多いかと思います。
   しかし、領地での政治はなかなか評判で、領民には慕われていた人物のようです。
   (事実はもちろんわかりませんし、確定的なことはいえませんが。))

 「イラク戦争」の報道が多い中、日に幾度も繰り返し放映される
戦闘や爆撃のシーンを見て、すっかりその戦争のすべてを見たような
錯覚に落ち入りそうになります。
 限られた枠(フレーム)の中に映された(写された)景色は
一定の事実を現してはいるものの、ごく一部に過ぎないと考えるべきだと
思います。
 このような時代、個人個人が限られた事実の中から真実を
見つけ出す努力が必要かと思います。

 学生時代読んだ「事実とは何か」(なだ いなだ著)の中に
   「事実は必ずしも真実ではない。
    事実を数多く積み上げたからといって真実になるものでもない。」
  という一文を思い出しました。

04/01/2003

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